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ベルサイユ宮殿ツアー

フランス屈指の世界遺産ベルサイユ宮殿。なれない電車&徒歩で行くより時間効率抜群の専用バスで直行しませんか?パリジャン御用達の朝市マルシェも体験できます。車中では日本語アシスタントガイドが見所やベルサイユ宮殿のヒストリーを丁寧にご説明いたします。 マルシェでのお買い物のお手伝いもお気軽にお尋ねください。エミトラベルオリジナルの特製マップ付きでご自身のペースで充実した宮殿見学が可能です。

ベルサイユ旅行の準備

パリから南西に約20km離れたところにヴェルサイユはある。
自らの栄光と絶対権力を象徴する住居を求めたルイ14世の意向で、壮大で豪華な宮殿が建設された。代々の君主達が当時の偉大な芸術家や建築家に命じて美化されたヴェルサイユ宮殿は、ひとつのフランス栄光そのものを物語っている。宮殿はフランス王政の遺物であると同時に、芸術と歴史の素晴らしい博物館である。

幼き時に、フロンドの乱でパリを嫌ったルイ14世は、ヴェルサイユという地を選んだ。1661年から約50年もの歳月をかけ、父ルイ13世が建てた小さな‘‘狩りの館’’の改装を命じたが、彼自身、そこが、巨大な建物全体の中心部になろうとは夢にも思わなかったであろう。
ベルサイユの総面積は800ヘクタールを超えると言われている。
内装はシャルル・ルブランに、庭園はアンドレ・ルノートルに担当させた。
ヴェルサイユは絶対王政を象徴する場所となり、すべての権力が王に集中していた。ルイ14世は、彼に服従する家臣を使って国を統治しながら国の長として君臨するとともに、ヴェルサイユ宮殿の主でもあった。
1789年、フランス革命により、パリ市民が国王一家をパリへ連れ戻したため、その後主を失ったヴェルサイユでは略奪が繰り返され、美術品の大半は移されて宮殿は荒廃していった。
1837年、ようやくルイ・フィリップが宮殿に修復を施し、フランス史博物館として蘇った。
1870年ドイツ軍占領下、プロイセン王ウィルヘルムはここでドイツ皇帝として戴冠した。
1919年、第一次世界大戦の終結となるヴェルサイユ条約が結ばれたのもここヴェルサイユ宮殿である。

Louis XIV ルイ14世

父ルイ13世同様、ルイ14世も狩猟を通してヴェルサイユを知り、都市開発の進んだ首都に馴染めなかった王は、建築意欲を満たす手段をヴェルサイユに見出した。栄光は征服とそして建物建築を経て得られることを知っていたのだ。 ルイ14世は、宮廷だけでなくその政権も安定させ、自らを太陽王と神格化 した。権力を完璧に具現化した王は、1715年9月1日に、宮殿中央にある大寝室で亡くなる際、「私は逝くが、国家は永遠だ」と宣言した。

Louis XVI ルイ16世

ルイ16世はヴェルサイユ宮殿で生まれ、そこで生活した最後の王である。宮殿だけではなく、祖父ルイ15世が半ば放棄していた重い伝統も相続した。期待に応える為、王家の改革を企て使用人の数を減らしたが、本人の権威逸失にも繋がった。1789年フランス革命時には、パリに連行され、立法君主制を承諾するも、王は逮捕され、裁判の後に1793年1月21 日にギロチン台で斬首刑に処された。

マリー・アントワネット

マリー・アントワネットがウィーンからヴェルサイユにやってきたのは14歳の時であった。ヨーロッパでも最も華やかな宮廷の王太子妃という地位を与えられ、宴や娯楽に身をやつしたのは、質素な生活を好んだ夫とは対照的であった。ハプスブルク家の厳格な教育を受けてはいたが、ウィーンとは逆に、公私を区別しないフランス儀礼作法に熟達することがなかった。音楽と流行が好きで、最初は甘やかされていたが、無分別な行動ですぐさま不快に思われる様になる。革命の不安に巻き込まれ、夫ルイ16世と同じ運命をたどる。 1793年10月16日、ギロチンの露と消えた。

映画 マリー・アントワネット 2006年 ソフィア・コッポラ監督

漫画、アニメ ベルサイユのばら 池田理代子

史実を基にしたフィクション作品で、ブルボン朝後期、ルイ15世末期からフランス革命でのアントワネット処刑までを描く。今年50周年!2022年9月17日(土)~11月20日(日) ベルサイユのばら展開催中。

漫画 イノサン 坂本眞一

18世紀フランス、死刑執行人サンソン家の過酷な運命に気高く立ち向かった純真(イノサン)の物語。

漫画 マリー・アントワネット 惣領冬実

史上初、ヴェルサイユ宮殿が衣装、建築、そして王宮儀礼のすべてを監修。壮麗なロココを紙上に再現した惣領冬実の最高傑作。21世紀に発表された衝撃の事実をもとに描かれる、全く新しいフランス王妃マリー・アントワネットと国王ルイ16世の物語。

バスティーユ牢獄の名残

3-5 Place de la Bastille
1 Rue Saint Antoineの地面のマーク
49 Rue Henri IVの地面のマーク
5 Rue Saint Antoineのプレート
Métro5号線Bobigny方面のホーム 要塞の外掘の名残
Métro1号線 両ホームの壁画 フランス革命200周年を記念にした壁画

アンヴァリッド廃兵院

ルイ14世が1670年に建てた、傷痍軍人や退役軍人の為のホスピスだった。 現在も一部病院、残りは軍事博物館。 又、金ピカのドーム教会は1840年からナポレオンのお墓。革命時は王家の教会だった。 1789年7月14日早朝、民衆はここに来て32000もの銃と12の大砲を奪いバスチーユへ向かった。

カルナヴァレ博物館

パリの歴史博物館。4年かけて改装された美術館は無料。 カフェやレストランだけでも利用可。フランス式2階にフランス革命のコーナーでは貴重な歴史資料を見ることができる。 人権宣言、テニスコートの誓いタンプル塔幽閉時のルイ16世、マリー・アントワネットの遺品 テンプル塔幽閉部屋の模型 テンプル塔で亡くなったルイ17世の肖像画 etc

レピュブリック広場 マリアンヌ像

フランス共和国を表す女性 右手には月桂樹の葉を持ち、左手に人権宣言のプレートを持つ

パレ・ロワイヤル

元々はルイ13世時代の宰相リッシュリューの物だった。 なくなる直前にルイ13世に寄贈

パリ市庁舎

現在の建物は1874年に再建されたもの。 革命時のパリ市庁舎は、王権に対抗するパリ市民の拠点だった。 バスティーユ襲撃の3日後、ヴェルサイユから出てきたルイ16世は市庁舎の広場で国民衛兵を認可、ラ・ファイエット総司令官、バイイーパリ市長の認可をし、バイイーの差し出す革命のシンボルである3色の徽章を自分の帽子につけた。これは、当時パリ市を表す色、赤青の間にブルボン王朝の白を入れた3色でフランス国旗の起源。なぜ王家の色が入っているのか?軍隊をパリから撤退させてくれた感謝の意。ここからも分かるように、革命当初は立憲王政を目指していた。それから約3ヶ月後、国王一家はヴェルサイユ宮殿を後にしパリに戻って来る。その前日に、パリからの女将さん達のデモ行進があり、パンがない!という現状を訴えられる。そして一部暴徒と化した民衆が宮殿に侵入する事件が起きる。そこで、ラ・ファイエト将軍の勧めもあり国王一家はほぼ連行される形でパリへ戻る。ここから3年間、チュイルリー宮殿に住むが、そこから更にテンプル塔に移されたのは、前の年にヴァレンヌ逃亡事件(逃亡事件)を企てた為である。

コンシェルジュリー

シテ島は、元々王宮や、パリ高等法院などの役所があり王権を司っていた場所だった。コンシェルジュリーは、14世紀頃から近衛兵や、国王の礼拝堂付き聖職者など多くの職員が住んでいた。高等法院は革命時廃止されるが裁判所と牢獄の機能は引き継がれる。そして、この革命裁判所で裁かれた数多くの人達がここの牢獄から刑場へ引かれていった。囚人達は、この刑務所の中でも経済状況によって監禁の条件が違ったそう。最も貧しい囚人は藁が敷かれた雑居房、裕福な囚人は比較的快適な暮らしだった。ここでの最も有名な囚人はやはりマリー・アントワネット、かつての王妃がこの独房に入れられたのは1793年8月1日〜10月16日に処刑されるまでの約1ヶ月半の間。

コンコルド広場

ここはルイ15世が作らせた広場で、当初はルイ15世広場と言い、1792年に革命広場と改称、1795年から現在の名称コンコルド広場。 現在は広場の中心に、1833年エジプトから寄贈されたオベリスクという柱が建つが、かつてはルイ15世の騎馬像があった。しかし、そういった権力の象徴は革命時真っ先に壊され、ここは公開処刑の場となった。ここではギロチンによって1119名(1343名の説あり)の人が処刑された。実際にはここ以外にもルーヴルの中庭、カルーゼル広場、バスティーユ広場、ナッション広場、市庁舎前広場でも処刑は行われた。ナッション広場で処刑された数は1351人で一番多い。ただ、国王夫妻を初め、有名人が多く処刑されたのがコンコルド広場の為、刑場といえばコンコルド広場となる。

コンコルド広場

上部の石は破壊されたバスチーユ要塞の石。

Métro12号線ホームのタイル

人権宣言の文章。クイズ形式。

ヴェルサイユ宮殿

大理石の内庭

白と黒の大理石がうめつくされている、この場所の大理石は、ルイ14世があの、ヴェルサイユ宮殿のもとになったといわれるヴォール・ヴィコント城からもってきたもの。ルイ14世は。ヴォール・ヴィコント城と、二コラ・フーケに対する激しい嫉妬心から、ヴェルサイユ宮殿の建設を決意したと言われるが、その際に家具であったり庭に植える予定の樹木たちを運んできた。
この大理石の内庭では、作曲家のジャン・バチスト・ルリーのバレーが行われたり、劇作家のモリエールの劇が行われたりする舞台として使われていた。ルイフィリップの時代に大理石ははずされるが、1980年の改装で綺麗に再現される。

そもそもヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世の父ルイ13世の狩りの館から始まり、その一番古い部分がここにあたる。ルイ14世は父に連れられてやってきたこの館の部分に非常に大きな愛着を持ち、この部分を保ちつつ、ここを中心に宮殿を広げていくことを決意する。表面はルイ14世の好んだ古典様式といえる。

一番上の時計、その両側の彫刻は、右側は長い兜をかぶっているのが特徴の戦争の神様のマルス。左手の方があのギリシャ神話の中のヘラクレスが自らの倒した獅子の皮をまとって座っている。どちらもルイ14世の指揮したオランダ戦争で神聖ローマ皇帝、スペインを破った王の栄光と権力を象徴したものといえる。ルイ14世の第一装飾家であったシャルル・ルブランの設計によりジュール・アンデュアン・マンサールマルジーにより作られた作品。戦争で疲れた後の体を癒すルイ14世がヘラクレスの姿で比喩表現されている作品。
又、一階と二階部分には胸像がたくさんありますが、これらはルイ14世の古代彫刻のコレクションの一部で歴代ローマ皇帝たちの胸像。
ルイ13世の狩りの館部分は1624年に作られ、正面の変更を含め両側の対になっている部分は1665年に完成。ここからヴェルサイユ宮殿のテーマである線と美と統一、均一、シンメトリー左右対称性を重んじた宮殿作りと庭園作りが始まる。

アンヴァリッド廃兵院

ルイ14世が1670年に建てた、傷痍軍人や退役軍人の為のホスピスだった。 現在も一部病院、残りは軍事博物館。 又、金ピカのドーム教会は1840年からナポレオンのお墓。革命時は王家の教会だった。 1789年7月14日早朝、民衆はここに来て32000もの銃と12の大砲を奪いバスチーユへ向かった。

王室礼拝堂

ヴェルサイユ宮殿で最も大切な場所 現在は一般見学者は中に入ることはできないが、当時は地上部分が一般信者、2階部分は王侯貴族専用として使用されていた。 バルコニー部分が王様とその家族専用で、毎朝10時にミサが行われていた。 1階祭壇はブロンズで作られ金箔が貼られ、壮大なパイプオルガンの上部のドームはキリストの復活が表現されている。 十字架に磔になり処刑されたイエスが天に登る場面、さらにその後の物語は天井に続く。 天に登ろうとするイエスを待つのは真ん中の光に包まれた父なる神、現世から天国への移行が表現されるシャルル・ド・ラフォスの作品。 信者たちは、自分もキリストと同じように死後天国に行けると思い祈った。 マリーアントワネット14歳、ルイ16世16歳の結婚式が行われた場所。 今から250年前ぐらい前でも、フランスの修復技術は徹底されている為、ちゃんとオリジナル通り戻すこと、そして100年後再度修復することになっても同じ姿に戻せるように修復すること、この2つが徹底されている。 その為私たちが現在見ることができる部分は、マリーアントワネットが結婚式で見た光景と同じものを250年たった私たちも見ているということになる。 ここは、ルイ14世の在位のなかで最後に作られた場所。 その前は、次のヘラクレスの間に礼拝堂があった。

鏡の回廊

圧倒的な広さ、空間を誇る‘‘鏡の回廊’’は、長さ73m、幅10,5m、高さ12,3mの空間に、かつては祝祭の夕べだけの為にボヘミアングラスのシャンデリアが24基も吊り下げられていた。それぞれの窓には17のアーケードがあり、合計357枚の鏡で装飾されてい流る。当時はガラス1枚で家が一軒買える程の価値があったと言われている。その大きさや数を見れば、フランスの新しいガラス工場が当時最高級の贅沢品であった鏡の専売元としての地位を、ヴェネツィアから奪い取る程の力を持っていた事も分かる。

当初、ルイ14世は‘‘鏡の回廊’’にシャルル・ルブランがデザインした純銀製の調度品を置いたが、戦費調達の目的で1689年に熔解された。
マリー・アントワネットと後のルイ16世となる王太子の婚礼の仮面舞踏会が1770年に行われ、1919年6月28 日には、第一次世界大戦の終わりを告げるヴェルサイユ条約の署名もここで行われた。以降、代々の共和国大統領は、フランスの国賓をここで迎えている。

中央窓から庭園を覗くと、水花壇から水平方向に視線を誘う眺望が広がっている。王の寝室がある東から登り、夕方西に沈む太陽の美しい風景を楽しむこののできる設計になっている。

王の寝室

王曰く「太陽はあらゆるものに恩恵を与え、常にすべてのものに命と喜び、活気をもたらす」。
この部屋は、初期の城館の頃から建物の中心部にあった大広間である。王妃マリー・テレーズの死後、‘‘王の居殿’’と繋がり、一般の‘‘国王の身支度を整える間’’と呼ばれた。当時この広間は3つのアーチ型開口部で‘‘鏡の回廊’’と繋がっており、一種の補完的な部屋としての役割も果たしていた。アルコーブの部分と寝室のそれ以外の場所えを隔てる金メッキを施した木製の欄干には彫刻が施され、王のベッドの上の張り出し部分には、眠りを見守るかのようにフランスの寓意画がニコラ・クストゥによって化粧漆喰に描かれる。

3種類の金糸と1種類の銀糸で作られた、この豪華な部屋にある布はすべてが手編みで、当時その技術のある職人は4人のみであったとされる。
90㎝×42㎝の幅のものを一日わずか1.5㎝~3㎝しか縫えず、完成に19年物歳月がかかった。金糸の重さは全てあわせると120㎏もあった。

ルイ14世は1701年にここを寝室と定め、1715年にこの部屋で息を引きとった。彼の後継者となったルイ15世は、ルイ14世と同じくここで起床と就寝の儀式を行なった。又、1789年10月6日、ヴェルサイユからパリに連行される前に、ルイ16世と王妃、そして王太子がこの部屋のバルコニーから群衆の前に姿を現した。

王妃の寝室

数年前に修復が終わったばかりの王妃の間。
天井は金のグラデーションで、王妃風ベットは天蓋が壁に固定される。
ここでも起床の儀就寝の儀が行われ、王妃はこの部屋で一日の大半を過ごしたと言われる。
後継者を出産したのもこの場所で、当時本当の子かどうか確かめる為に出産は公開で行われ、同時に多くの人々が寝室に入り騒がしくなり、王妃がお亡くなりになるのではと心配されるほどだった。19名の‘‘フランスの子’’がここで産まれた。
現在の内装はマリーレグザンスカ時代の物がほとんどだが、胸像はマリーアントワネットで、家具に関してはフランス革命時代のものが再現されている。
マリーアントワネットが注文したジュエリーボックスの横に隠し扉がある。
フランス革命が起こった10月6日の早朝、民衆がこの部屋に入り込もうとした時にマリーアントワネットが逃げた扉で、別の部屋に繋がっていた。

ヴェルサイユ庭園

宮殿と同様、いやそれ以上にルイ14世が力を入れて作り上げたのが、通称フランス風庭園の頂点と言われるヴェルサイユ宮殿庭園である。 奥行きの深い羨望、整然とした線形、花壇、樹木公園、建物の影を映す水面などを通した驚愕の効果が駆使されている。 ルイ14世の統治下で完成したヴェルサイユ宮殿の庭園は、当時の人々に大きな感動を与えたが、今でもこの庭園を訪れる人々は、その広大さ、樹木庭園を含む壮大な眺めに驚き、庭園内の彫刻の数や素材の多様さ、ふんだんに用いられている水、樹木の豊富さなどに目を見はる。 ルノートルは建物のすぐそばに、階上からも眺められる”水の前庭”を作り、これによって宮殿の建物を引き立てようとした。 神話や寓話から引用した人物や動物の石像、大理石の像、ブロンズ像が庭園のあちこちに置かれている。ルノートルはこうした彫像が庭園の雰囲気を盛り上げ、庭園の軸線を妨げることのないよう配慮した。 ルノートルの作品の特徴は、開放感と広がりである。以前の庭園閉鎖的でそれほど広くもなかったが、彼が登場して以来、庭園は周辺の景観と一体化し、大規模なものに変わった。ヴェルサイユの庭園は、17世紀や18世紀の彫像が展示されている屋外美術館でもあるのだ。 ルイ14世のヴェルサイユに対する情熱は1715年に最期を迎えるまで続いた。国王はヴェルサイユに滞在するたびに毎日のように庭園内を散歩し、感嘆し、不都合な点を指摘し、変更するよう命じた。王室出納地帳には、徐々に工事が増え、それに伴って莫大な造園費用が支出されたことが忠実に記録されている。 国王は、”ヴェルサイユ庭園見学の手引き”なる本を著し、5回にわたり増補・改訂した。この本の中で国王は「見学するものが本に書かれた順序に従って見 学すれば、全てをゆっくりと見て回ることができ疲れることはないだろう」と自分なりの考えを述べている。

オランジュリー

1663年にルヴォーが築いた小さなオレンジ園の代わりに、1684年から1686年にかけてジュール・アルドゥアン・マンサールが建てた。空間の規模(主回廊の長さ155m、高さ13m)及び線形の純粋性とヴォールトの美しさでマンサールが設計家としての才能を発揮した場所の一つとされている。 オランジュリーは宮殿より低く、地面に埋まっている。側面に百段の階段を設け、地盤を安定させている。”百階段”の下にある2本の側廊が奥行きを深め、丸天井をもった長さ150mに及ぶ中央回廊から構成され、アーチ形の大窓が全体を明るくしている。 ”オランジュリー花壇”は3ヘクタールに及び、ルイ14世時代に飾られていた何体かの彫刻は、現在ルーヴル美術館にある。 4区画の芝生と丸い池で構成された花壇には、夏には植木箱に入った1055もの木(椰子、セイヨウキョウチクトウ、ザクロ、オレンジなど)が並び、それらはオランジュリーの中で越冬する。南向きであることや二重窓のおかげで、冬でも気温は5℃〜8℃と安定している。箱受けのポルトガル産、イタリア産のオレンジ、レモン、ザクロの中には200年以上の年齢をもつものもある。 この先には”スイス人の池”という広大な池がある。沼地の千拓作業と泉水の掘削作業を手伝うために呼び寄せられたスイス人傭兵隊が献身的に働いたことから、この名がついた。当時、ヴェルサイユの作業現場では15,000人が働いていた。

花壇

北側は”水の庭園”から”ネプチューンの泉”まで下り傾斜となっている。東西の主軸の特徴である、クマデシに囲まれた樹木公園が並ぶ広大な羨望の中央散歩道と同じ原則がここでも用いられている。数種類の花によって彩られツゲや芝生、刈り込まれたイチイのある”北花壇”は北翼棟の下り勾配に沿って作られ、泉の装飾は北翼棟のファサードを飾る海の神々の彫刻と調和している。 南側に傾斜はないが、三段の平坦部で構成されている。宮殿の高さに ”南花壇”があり、その切り立った端の下に”オランジュリー”の花壇が続いている。その先の低い場所には、遠近法に従って計算された桁外れに長い”スイス人の池”がある。 花々に彩られたセイヨウツゲの花壇は、宮殿2階の王妃の宮殿の窓の下でアラベスク文様を描く。以前は花壇或いは愛の花壇と呼ばれ、オランジュリーの上に位置し、公園で一番古い彫刻”スフィンクスに抱かれたクピド”が囲む階段から上がる。

散歩道と木立

ルイ14世治世下、‘‘沼地’’と呼ばれていた木立が、1670年から1673年の間モンテスパン夫人の勧めで整備された。
並木道で遮断され、鉄格子で閉じられた目立たない空間で会えう木立が15あった。庭園の一般的設計図の厳密な規則性に対位するモチーフであり、装飾や形も異なり、その多様性は訪れる者達を驚嘆させる効果があった。
ほとんどはルノートルの作品であるが、幾つかはマンサールが修正している。
これら魅力的な緑の空間、幻想的隠れ家では水の形状や彫刻装飾も豊かで、祝宴の場として使われ、ダンス、音楽、芝居、軽食パーティーなどが行われた。しかし、維持が難しく費用も高額な為、木立によっては劣化
が激しく、18世紀には立ち入りできなくなった。

泉水、フォンテーヌ、彫刻

”ラトナの泉”、”アポロンの泉”、来訪者に強い印象を与える、魔法のような 泉を配した見事な庭園造りは当然、大掛かりな給水を必要とした。ヴェルサイユの立地自体はあまり適しておらず、ルイ14世は地下水試掘や水力技術の力を借りて、必要に常時対応する給水システムを設置した。需要が高まったことから、1681年にマルリーの給水装置が誕生した。 彫刻の剪定は、シャルル・ルブランが考案したものや国王が直接命じたものもあるが、彫刻の選定と庭園内の設置場所の決定は小アカデミー(後の文芸アカデミー)によって行われた。

王の庭園

ここはかつて湿地帯で、水抜きを行う目的で1671年から1674年にわたって掘削され、”王の島”と呼ばれる広大な泉が作られた。この泉の東側の、”サトゥルヌスの散歩道”の反対側から、2番目の泉が掘削された。これが”鏡の泉”である。この泉はすり鉢状の芝生で囲まれており、水の一部は ”王の島”へ流れ込む様になっていた。 このうち現存しているのは”鏡の泉”のみである。 革命期と帝政期にかけてほとんど維持管理が行われなかった為、”王の島”の池は干上がってしまい、1816年から1817年の冬にかけて埋め立て工事が行われた。1810年から1832年の期間にヴェルサイユ宮殿の専任建築家だったアレクサンドル・ディフールはこの場所に当時の流行だった英国庭園のピコレス様式を持つ”王の庭園”を造園した。 150本以上もの樹木と小灌木や50種類の異なる種類の花々が植えられた花壇がその美しさを競うすばらしい植物コレクションとなった。

グラントリアノン

1668年、ルイ14世はトリアノン村を購入しヴェルサイユの領地に合併した。そしてこの村の建物を壊し、1670年に館を建てた。青と白の陶器で飾られていたことから、この館は ”陶器のトリアノン”と呼ばれた。1687年、国王はこの館をより広い建物に建て替えることにした。この建物の設計はアルドゥアン・マンサールが行い、その装飾から”大理石のトリアノン”と呼ばれた。 それ以降、フランス革命を除き、第二帝政の崩壊まで、大トリアノンには君主やその関係者が住み続けた。現在の宮殿は、ナポレオン1世とルイ・フィピップの命令によって改装されたものであり、その全面的な修復は1965年にドゴール将軍の命令により行われた。

プチ・トリアノン

ルイ15世の最も有名な寵姫で、亡くなった後も友人であり続けたポンパドール伯爵夫人が”王の退屈しのぎ”の為に率先して計画したのがこの小さな宮殿である。ルイ15世は科学に興味を持っていた為、ガブリエルが1763年から1768年にかけて植物園と新しい動物小屋の近くに建てた。 しかしながら、1764年に亡くなったポンパドゥール侯爵夫人はこの宮殿の完成を見ることなく、今日では、主にマリー・アントワネットの思い出が深い。 1774年に、ルイ16世はマリー・アントワネットにプチ・トリアノンを贈り、大いなる喜びを与えた。その時に「あなたは花が好きでしょう。あなたに花束を贈ります、トリアノンです」と言ったという。

王妃の村里

マリー・アントワネットは、宮殿から約3kmほどの大トリアノン、小トリアノンと同じ一画にある場所に”王妃の村里”を作らせた。 王妃はランブイエのランバル夫人やシャンティーイのコンデ家にならい、外観はノルマンディー風で内装が極めて洗練された家々からなる村を持つことを望んだのだ。設計の命を受けたのは、ルイ16世時代の第一建築家リシャール・ミック。著名な画家で、庭園デザイナーでもあるユベール・ロベールからインスピレーションを得て完成させた。 1783年から1785年にかけて、ノルマンディーの小さい部落に着想を得たミックは12軒の家を建てたが、このうち”王妃の家”、”撞球場”、”水車小屋”、”鳩舎”など10軒が現在も残っている。人工湖正面の最も大きな建物である ”王妃の家”は、木造廊下でビリヤード室に繋がっている。 王妃は、息つまる宮廷をのがれ、ここで子供たちと静かに過ごし自然を楽しみ、彼らに田舎での暮らしを教えた。

王の散歩道

芝生帯が中央に延びていることから”緑の絨毯”とも呼ばれる”王の散歩道”は、長さ335m、幅40m。設計はルイ13世の時代で、ルノートルが拡張し彫刻12体と瓶12個を対称の組で配置し広々とした芝生にアクセントをつけている。 両側には、散歩する人々の進路に沿って木立に入る小道がある。